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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第4節 狐媚霞 [1]




 カウンターから戻ってくる綾子に、詩織は申し訳なさそうな顔をあげる。
「ごめんね、店、休ませちゃって」
「気にしないで、どうせ土曜日なんだから、たいして客も来ないわよ」
 詩織のための缶ビールをトンッと机に置き、自分はロックのグラスに口をつける。
「相変わらず、強いね」
「それが私のトリエ」
 ソファーに身を預け、肩を竦める綾子。
 窓のない店の中からは、外の世界を伺い知る事はできない。現実の世界を忘れるためにやって来る客たちには、むしろ外の世界など見えない方がいい。
「もう七時ね」
 ぼんやりと綾子が時計を見上げる。
「店なんて、今日は本当にもう開けるつもりもないから構わないけど、やっぱりそろそろ帰ったら?」
「向こうの店には休むって伝えたんだから大丈夫」
「そうじゃなくって」
 嗜めるような綾子。
「仕事じゃなくって、美鶴ちゃん」
 綾子の言葉に、向かい合う詩織も背をソファーに預ける。
「美鶴ちゃん、きっと家に帰ってるわよ」
 それとも、他に行きそうな所でもある? と問われ、詩織はしばし思案したのちに首を横に振った。もっとも、詩織は美鶴の日常のすべてを把握しているわけではないのだが。
「まさか、家出なんてしちゃわないわよね」
「美鶴に限って、そんな事はないわよ」
 美鶴が聞いたらどう思うだろうか? 私だって家出くらいするわよっ! と反発されそうだ。
 その様子を思い浮かべ、詩織は笑みを零す。
「あの子は、そんな事はしないわよ」
 だが、詩織の言葉に、綾子は同意しない。
「わからないわよ」
 ゴクリと、ウィスキーを一口。
「なにせ、あなたの娘なんですからね」
 その言葉に、詩織は遠い日の自分を思い出す。
 そうだな。自分も、家出をするような人間だとは思われていなかった。
「美鶴ちゃん、いくつ?」
「え?」
「歳よ。高校二年だって聞いたけど」
「あぁ、十七ね」
「十七、か」
 綾子がふと笑みを零す。
「あの時のあなたは、まだ十六だったわね」
 十六歳からスナック勤めをしていると、詩織は霞流慎二に語った事がある。ボロアパートが全焼して、行くアテもなく呆然としていた美鶴と詩織を、彼は自宅へ招いてくれた。車の中で、楽しげに身の上話を語った。隣で美鶴が詩織の醜態に身を震わせていたのを思い出す。
「本当にまだ幼くて、言っている事は生意気で、でもその瞳は真っ直ぐで」
 綾子が遠くを見つめる。そうして、大きくため息をついた。
「いずれ知れる事だろうとは思っていたけれど、まさかこんな形で教える事になるとは思わなかったわ」
 言いながら詩織へ顔を向ける。
「あなたは、それなりのシナリオを用意していたのでしょう?」
 詩織は笑った。
「別に」
 ようやく机の缶ビールに手を伸ばす。
「何も考えていなかったな。なにせ私は、だらしのない母親ですからね」
 缶に口をつける。鉄の味に混ざって入ってくるビールは、少し(ぬる)い。
「時が来たら美鶴も知る事になるのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。それがたまたま今日だったというだけの事」
「だったら、もう起こってしまった出来事にあれこれ思い悩む事もないわよね」
 綾子がグラスを机に置く。
「そろそろ帰った方がいいわ。美鶴ちゃんとはちゃんと話し合った方がいい。なにせ、彼女は事実のほんの一部を聞きかじっただけで飛び出してしまったのですからね」
 やや蒼白気味な顔で店を飛び出した美鶴の姿を思い出す。
「それに、たとえ彼女にその気がなくとも、感情の不安定になっている未成年は揉め事に巻き込まれやすいから。あなたの話だと、もうすでにずいぶんといろいろな厄介事に巻き込まれているみたいだし」
 美鶴が飛び出した後、詩織はこの店内で、ポツポツと近況を話した。
「カモを探してうろつく破落戸(ならずもの)はどこにでもいるわ。変な男に絡まれないとも限らない」
 変な男。
 詩織は缶ビールを持つ手を宙で止めた。
 このような仕事をしている為か、変わった人間を目撃する事はよくある。今の店に出入りする客の中にも、明らかに犯罪すれすれと思われる行為を店で自慢する客もいるし、繁華街にはそういった輩が徘徊もしている。詩織も何度か目撃した。
 変な男。例えば、ジットリと蒸せるような暑い夏の深夜に、金色の髪を背に靡かせて路地に消えた青年とか―――







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